昨今では介護を受ける要因になったものに、認知症 が筆頭になっている。
介護施設でも例外なく、利用者の大半が認知症であると思う。
そんな認知症について、介護とは切っても切れない関係であると思う。
ここには私の主観で認知症について思うことを書いていこうと思う。
認知症と一言で言ってもいくつか種類がある。
アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症、レビー小体型認知症、などなど。
中でもアルツハイマー型が一番多く、
脳血管性は男性に多い、レビー小体型は幻視症状がみられる等、それぞれ特徴があったりするが
些細なことである。
何らかの影響で記憶を司る海馬という脳の一部の弁が作動不良に陥り、
新しい記憶が保存出来なかったり、保存してある記憶が無くなったりする。
症状の進行速度や目立つ症状も人それぞれで、一概にこうなるとは言い切れないのである。
それでも共通して言える主な症状は短期記憶の欠如だと思う。
ここまで説明すると長くなるので省略するが、記憶が無くなるということである。
良く物忘れと間違えられるが、皆様は物忘れと認知症の違いをご存知だろうか。
例えば昨日の夕飯を思い出したい時に何を浮かべるだろうか。
食べたことは覚えている。時刻?食前食後にしたこと?誰と食べたか?
なんでも良いのです。
そうやって他の記憶を辿っていけるのが物忘れなのです。
しかし認知症は違います。
記憶のそのもの、全てが保存されていない状態のため、そもそも思い出すという動作が出来ないのです。
だから「思い出して」と話しても何のことか理解できず、
仕舞いには馬鹿にされたと思い、怒り出される方もいます。
認知症の明確な治療薬は未だ存在せず、
進行を遅らせるという薬も効果があるとは感じられないものばかりです。
つまり、認知症は現時点で治せないのです。
まぁ、認知症の症状については色々文献も出てますし、私は専門家でもないのでここまでとさせて頂きます。
今まで仕事場、数々の研修、参考書で習ったのは、認知症は病気ではない。
その人が持つ個性の一つ、だということ。
そんな彼等の生き方から学べることもあるということ。
果たして本当にそうだろうか?
少なくとも施設で働いている私にはそうは感じられない。
今日を忘れ、昨日を忘れ、今月を忘れ、今年を去年を忘れ。
彼等はいつを生きているのだろうか。
どこにいるのかも、何をするのかも、周りの人間も分からず。
そんな環境にいる彼等を生きていると言えるのだろうか。
結局は皆、誰かのエゴで生かされている。
自身で死を選択できるわけでもなく、誰かが殺してくれるわけでもない。
ただ動いて息をしている状態が、人間として成立しているとも思えない。
何かを成して伝えること、それが人生に置いて一番重要な事だと私は思っている。
それが故にこの考えから抜け出せずにいる。
彼等が存在していることを間違いだとも思っていないし、
いつかの犯罪者のように階段から落としたり、殴ったりする程の恨みもない。
私にとって介護はビジネスだ。
人に優しく振る舞えるし、気も遣えるし、愛嬌もある。
そうして私のビジネスは成り立っている。
他人の生き方なんて知らない。
今の情報社会、知りたい事は検索すれば大概わかる。
学びたければ細分化されたスクールに行く。
自身が介助している相手の生き方なんて、知ったところで有益ではないと思う。
ただ、認知症がどういったものなのか理解し、それを自分と置き換えて考えることで
自然と腹は立ちにくくなってくる。
そうした上手い付き合い方を選んで働いていく。
それは家庭で認知症を看るに当たっても、施設で働くにおいても同じ事だろう。
今日はここまで。
同じ題材でまた書かせていただく事があるかも知れません。
どうか悩みを抱える誰かのお役に立てますように。
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